街は光で満ちています。
イルミネーション、クリスマスソング、プレゼント、ケーキ、恋人たち。
12月になると、世界は一斉に「幸せ」の方向へと装飾されます✨
しかし僕はこの光の中でひとりブログを書いています✍️
どうやら今年のクリスマスは、文章を書いているうちに終わってしまいそうです(笑)
クリスマスは「誕生日」ですが、本当の誕生日ではありません 🎂
クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日とされています。
しかし実は、聖書にはキリストの誕生日は記されていません。
12月25日は後世の教会が象徴として定めた日であり、
ローマ帝国の冬至の祭り(太陽の再生)と重ねられたとも言われています🌞
つまりクリスマスとは、歴史的事実ではなく、意味を祝う日なのです。
裏切りから始まる物語
キリストの物語の中心にあるのは、誕生よりも裏切りと死です。
弟子ユダは銀貨30枚と引き換えにキリストを密告し、
キリストは捕らえられ、処刑されます。
しかしキリストはそれを予見し、それでも止めませんでした。
裏切りは悪であると同時に、物語を成立させるための必然でもあったのです。
『最後の晩餐』と、不協和音の都市伝説 🎨🎵
レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』は、
「裏切りが告げられた瞬間」を描いています。
弟子たちは動揺し、疑い、身を乗り出します。
ユダだけが影に沈み、金袋を握っています。
この絵には有名な都市伝説があります。
弟子たちの手の位置が音階になっていて、
ユダの部分だけが不調和音になっているという説です。
証明された話ではありません。
しかし、絵画だけでなく音楽にも精通した万能の天才ダ・ヴィンチなら、
やりかねないと思えてしまうのが面白いところです😌
カトリックとプロテスタント —— 二つの信仰のかたち ✝️
キリスト教は一つの宗教のように見えますが、内部にははっきりとした違いがあります。
それがカトリックとプロテスタントです。
これは単なる宗派の違いではありません。
**「人はどのように神と向き合うのか」「信仰とは何なのか」**という人間観の違いです。
カトリック —— 信仰を「受け継ぐ」宗教
カトリックはローマ教皇を頂点とする組織を持ち、
2000年にわたる教会の伝統を非常に重視しています。
カトリックにとって信仰とは、
個人が自由に作るものではなく、
共同体の中で受け継がれてきたものを信頼することです。
そのため、
- 教皇と司教によるヒエラルキー
- 公会議や教会の伝統の重視
- ミサや典礼などの儀式の重視
- 聖人崇敬やマリア信仰
などが重要になります。
これは権威主義というより、
人は一人では必ず誤る存在であり、歴史と共同体に判断を委ねた方が安全だ
という人間観に基づいています。
プロテスタント —— 信仰を「選び取る」宗教
プロテスタントは16世紀の宗教改革から生まれました。
当時のカトリック教会は、免罪符の販売などによって
信仰を制度と金銭に結びつけてしまっていました。
それに異議を唱えたのが、マルティン・ルターやカルヴァンたちです。
彼らは次の原則を掲げました。
- 聖書のみ(Sola Scriptura)
- 信仰のみ(Sola Fide)
- 恵みのみ(Sola Gratia)
つまり、
神と人との間に、教会という仲介者は必要ありません。
人は直接、聖書と神に向き合うべきです。
という考え方です。
そのためプロテスタントでは、
- 教皇はいません
- 聖人崇敬やマリア信仰は基本的に行いません
- 儀式よりも説教と聖書理解が中心です
- 個人の良心と内面の信仰が重視されます
信仰とは制度ではなく、個人の内側で起こる出来事なのです。
違いを一言で言うなら
かなり単純化すると、
- カトリック:信仰は「受け継ぐもの」
- プロテスタント:信仰は「選び取るもの」
どちらが正しいという話ではありません。
これは、人間をどれだけ信じるかの違いでもあります。
サンタクロースとトナカイ —— 文化が生んだもう一つの祝祭 🎅🦌
サンタクロースとトナカイは聖書には登場しません。
彼らは宗教ではなく、文化と物語の存在です。
サンタの起源は4世紀の聖人・聖ニコラウスだとされています🎁
彼は貧しい人や子どもを密かに助けた人物でした。
トナカイは北欧の自然文化と、19世紀アメリカの詩によって形作られました。
1823年の詩『A Visit from St. Nicholas』が、
トナカイが空を飛び、名前を持ち、夜に現れるというイメージを固定しました。
なぜ人は物語を重ねるのでしょうか
十字架の物語だけでは重すぎます。
プレゼントの物語だけでは軽すぎます。
だから人は、両方を必要としました。
裏切りと死の物語の上に、
贈与と笑顔の物語を重ねたのです。
祝祭とは、忘れないための装置なのかもしれません 🕯️
冬至に光の意味を与え、
一人の人間の処刑に救済の意味を与え、
ただの贈与行為に「サンタ」という人格を与え、
それらを全部まとめて「祝祭」と呼ぶ。
ある意味、人類はずっとやっていることが同じで、
「忘れたくないものを、忘れない形に加工している」
だけなのかもしれません。
祝祭って、喜びのためというより、
「これは忘れてはいけない」という記憶の固定装置なんだと思います。
しかもそれを、ただの記録じゃなくて、
音楽にして、光にして、物語にして、食べ物にして、
身体ごと覚えさせるところが、いかにも人間っぽい。
理屈じゃなく、感覚に刻み込む。
だから人類は、
祝祭がないと生きられないのかもしれません。
……と、ここまで書いてみましたが。
気づいたらもう夜中です…
どうやら僕のクリスマスはブログを書くだけで終わってしまいそうです(笑)🐧
ダ・ヴィンチについて触れたので、もっと彼について書きたくなってきました😅
なので、明日の記事はレオナルド・ダ・ヴィンチについて書こうと思います。
万能の天才と言われる彼はどのような人物なのか、じっくり書いていこうと思います!
あと、せっかくのクリスマスなので、明日はおいしいものでも食べに行こうかなと思っています🍴
それもまた、ささやかな祝祭ということで😊
それでは、おやすみなさい💤
メリークリスマス🎉
また明日よろしくね!

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