秋の夕暮れになると、どこか胸の奥が静かにざわめき始める。
過ぎ去った時間や、もう戻らない日々のことを自然と思い出してしまうのは、きっと僕だけではないと思う。
人間はなぜ、ここまで「思い出」に囚われるのだろう。
そしてなぜ、その思い出を、言葉や写真や記録という形で残そうとするのだろう。
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ゾウやチンパンジーといった賢い動物にも、記憶はあると言われている。
仲間の死を悼む行動や、水場を何年も忘れない知性も持ち合わせている。
けれど、彼らは「物語」を残さない。
自分が見た景色や、抱いた感情を、“未来の誰かのために保存する”という行為はしない。
言葉を持ち、文字を発明し、歴史を記すようになったのは人間だけだ。
それは進化の証であり、“特権”だと語られることが多いけれど――
時々、僕はこう思ってしまう。
それは本当に特権なのだろうか。
あるいは、“忘れられないこと”という宿命を背負ってしまった、生物としての孤独の証なのではないか、と。
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思い出を残すという行為は、美しい。
けれど同時に、それは「過去を手放せない」という、人間だけが抱える苦しみでもある。
過去の出来事に意味を見出そうとする。
失った人の存在を残そうとする。
なぜ出会いがあって、別れがあったのか。なぜ自分は生きていて、誰かはもういないのか。
人間は、そこに“理由”や“物語”を求めずにはいられない。
動物たちは、きっと今日を生きることだけに集中している。
その姿はある種の自由であり、本来の生命の形に近いのかもしれない。
一方で、人間は「生きるとは何か」を考えることから逃れられない。
それは、自然の流れから一歩はみ出してしまった“異端”と呼べるのかもしれない。
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では、思い出を残すことは、虚しさに繋がるだけなのだろうか。
僕は最近、少しだけ違う考え方をするようになった。
人間が記憶を残そうとするのは、「忘れられないから」だけではない。
“生きた証を通して、誰かとつながりたいから” なのではないだろうか。
それは、孤独な行為ではなく、むしろ「人と共に在ろうとする意思」なのかもしれない。
たとえ相手が今ここにいなくても、時間を越えて、心に触れようとする温かな試み。
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僕たちは自然界の中で異端な存在かもしれない。
けれどその異端性こそが、人間らしさの源なのだとしたら――
思い出を残すという行為は、悲しみや虚しさではなく、
**「生きようとする静かな祈り」**なのかもしれない。
僕は、過去に囚われる人ではなく、
過去を愛せる人でありたい。
思い出を抱きしめながら、それでも今日を生きようとする。
その姿こそが、人間らしい強さであり、優しさなのだと思う。
今日もまた、僕は言葉を綴る。
それはただの記録ではなく、
過去の自分と、誰かの心と、未来へと続く道を、
静かに照らし出す、小さな灯火であってほしい。

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