このブログは、もともと自分のために始めた場所だった。
誰かに見せるためでもなく、評価されるためでもない。
ただ、自分の心の中に浮かんでは消えていく言葉を、そっと置いておきたかった。📖
最初は、「読者が自分ひとりでもいい」と思っていた。
誰にも期待されず、誰にも気を遣わず、好きなときに好きなことを書ける。
それだけで、十分だった。
けれど、言葉を重ねていくうちに、気づいてしまった。
――やっぱり、誰かに読んでほしい。
共感や承認を求めているわけではない。
ただ、もしこの言葉が誰かの心に触れ、
その人の世界にほんの少しでもあたたかい変化を生むことができたなら、
それはきっと、この場所を続ける意味になるのだと。
僕は声が出せない。
生まれつき気管が細く、赤ちゃんの頃に気管切開の手術を受けた。
物心ついたときには、すでに声は「自分にはないもの」としてそこにあった。
だから「失った」のではなく、最初から「声のない人生」を生きてきた。
声が出ないということは、ただ話せないということではない。
感情の動きが音にならず、胸の奥にとどまり続けるということだ。
嬉しさも、悲しさも、静かに反響するだけで、
それが誰かに届くのかどうかは、いつも分からない。
その不確かさの中で、僕は何度も思った。
――本当に、自分はこの世界に触れているのだろうか、と。
そうして僕は、少しずつ一人でいることを選ぶようになった。
誰かと一緒にいると、言葉にならないもどかしさや、伝わらない苦しさに心が揺れる。
相手を疲れさせてしまう不安を抱え、うまく反応できない自分に落ち込むこともあった。
だから、一人でいたほうが楽だと思うようになっていった。
けれど、それだけが理由ではない。
僕は本当に、一人の時間を心地よいと感じる瞬間が多い。
誰にも気を遣わずにいられること。
自分のペースで呼吸できること。
好きなときに本を開き、好きな場所を歩き、好きな時間に考えることができる。
その自由さは、間違いなく僕にとって救いであり、静かな喜びでもある。
一人でいることの「孤独」と「自由」。
寂しさから距離を取るための防衛でありながら、同時に心が落ち着く居場所でもある。
そのどちらもが確かに僕の中に存在していて、切り離すことはできない。
たぶん僕は、一人でいることが好きな寂しがりやなのだと思う。
矛盾しているように聞こえるかもしれないけれど、
その矛盾こそが、僕という人間を形作っている。
人とつながりたいと願う心と、一人でいたいという本音。
その両方を抱えながら生きていることこそが、僕の「生きている感覚」なのだ。
だからこそ、僕は言葉を書く。
声は出せないけれど、言葉ならここにある。
文字を打つたびに、「僕は確かに生きている」という感覚が静かに灯る。
誰かに届くかどうかは分からない。
それでも、書かずにはいられない。
言葉こそが、僕と世界をつなぐ唯一の手段だからだ。
このブログは、僕のための場所だ。
でも、もしこの言葉が誰かの心に触れることがあるのなら、それは偶然ではなく、
僕と同じような想いを抱えて生きている誰かが、どこかにいるという証なのかもしれない。
声は出せない。
けれど、言葉はここにある。🐧
今日もまた、僕はひとつ言葉を残す。
それが何を変えるのか、何も変えないのか――今の僕にはまだ分からない。
ただ確かなのは、こうして言葉を書くたびに、
僕という人間の輪郭が、静かにこの世界に刻まれていくということだ。

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